■ 4, 15, 30~60,
さて、この数列は・・・?
1は、「ザ・イロモネア」で・・・・・ 1分。
4は、「M1」で・・・・・・・・・・ 4分。
15は、「寄席の高座」で・・・・・・・15分。
30~60は、「落語の独演会」で・・・ 30~60分。
それぞれの持ち時間だ。
■ 時間の長短は、
芸を組み立てる構造が異なるということで、
その構造の違いは、
届ける相手が異なるということだ。
漫才でも、寄席の高座(15分)でのものと、
M1(4分)のものとでは、
届ける相手が異なる。
一方は、木戸銭を払ってその場にいるお客、
もう一方は、お茶の間のお客。
背景が違うのだから、
それらの優劣を一律に論じることは出来ない。
例えば、100m走と400m走はどちらも競走であるが、
選手にとっては、
レースのつくりがまったく異なった種目であるように。
■ 一方は、時間をかけて作りこみ、繰り返すことで完成し、
それをじっくり待っているお客がいる世界(特に古典落語)。
もう一方は、飽きっぽいお茶の間の観客であり、
瞬発力・即ウケを求められる世界。
だから、寄席とM1では種目が異なる。
「漫才」と「MANZAI」だ。
■ それぞれの種目に、プロがいる。
ある種目専門のプロもいれば、
いくつかの種目をこなせるプロもいる。
いづれにしても、尋常なことではプロにはなれない。
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■ 今、「ザ・イロモネア」を見ている(3/29)。
“1分枠の中で確実に笑いを取れ”というルールは、
飽きっぽいお茶の間の観客には適したサイズなのであろう。
演者は客席の反応を感じ取り、
瞬時にネタの流れを変えたりしている。
(あせったり、パニくったりもしつつ)
そこで、司会者(ウチ・ナン)が、
「○○でしたね」などとフッテくる。
チャチャ・ツッコミに見えるが、
みごとなコメントともなっており、
的を射ている。
演者も司会者も、全てが見えているのである。
袖で見ている他の芸人さんも、
フラれれば、即座にそこで起きていた状況を、
チャチャやツッコミの形でコトバにしている。
プロは、場をよく見ている。
■ じっくり作りこむことも、
瞬時に場に即応し、瞬発力を発揮することも、
どちらもプロに求められている。
セッションをするのも同じこと。
私たちの盗むべきものは、
あちらこちらにある。